傷つきやすいというのも能力の一つです。
山本毅
「どーだ」とばかりに、自信満々の演奏をする人がいる。それはそれで立派だが、競争を勝ち抜かないと職につけない音楽界の現状がそうさせているところがあると、打楽器奏者は言う。音楽は人を励まし、奮い立たせもするが、人を慈しみ、慰めるものでもある。傷ついた心によく共振するのは、傷つきやすい繊細な感受性だ。そもそも音楽は競いあうようなものではない。
今朝の朝日新聞に掲載されていたコラムです。
今年2月に89才で亡くなったアルド・チッコリーニは晩年になればなるほど、一切のパフォーマンスを排除し、ひとつとして無駄のない音で聴衆を魅了し、まさに共振する音楽を聴かせてくれていました。
生前「派手なアクションにはどこかに”自分を見て”という欲がある。演奏中の不要な動きはいけない。私は出来るだけ自分の存在を消して、聴衆には作曲家の表現に集中してもらいたい」と語り、彼自身は「本当は客席から私が見えないように、つい立てを置きたい。鍵盤と手しか見えない照明システムも欲しいのだけど、まだ実現しない」とも語っていました。
クラシック音楽の希望の芽は、「今や東洋にある」と考えていたチッコリーニは晩年頻繁に来日していました。来日最後の演奏となった昨年の芸劇でのコンサートでは、杖をつきながら舞台中央までゆっくりと歩き、 ピアノの脇に杖を立てかけ、両手と上半身をピアノに預けながらゆっくりと椅子に座り、精神を集中させる。静かな呼吸から湧き出る音は老いの影が見える肉体とは無縁の至高のピアノ、聴衆の心に深く深く刻まれる神からの音楽でした。
チッコリーニは孤独を愛し、晩年も一人暮らし「毎日ピアノを弾き、友人や弟子たちが会いに来る。それだけが私の宇宙」と明かし、多くの心を共振する音楽には繊細な感受性と孤独を受け入れる強さも必要なのかも知れません。
「アーティストは語り部、個性の奴隷になってはいけない。自分自身は”Nothing”」
エスプリの音楽はもう聴けない・・・